こういうのは漫画で描ききるべきであるのですが、
残念ながら今の私にはそこまで力量が無いので・・・こそっと置いておきたいと思います。
「かたち」と聶兄弟
・死んで思い出は普遍になるが、身体的には傀儡にされ胴体と首を切り離される兄と、
・身体的な見た目は変わらないものの、時と共に内面が変わっていかざるを得ない弟
という彼らの身に起こる対比が好きで「かたち」というタイトルの話を描きました。
途中、全てのパーツが置き換わってもその人はその人か?という問いは
「テセウスの船」という同一性に関する有名なパラドックスです。
意外と理屈で考えがちな弟と、
普段小言を言ったり説教をする割に
こういう時は平然と理屈を超えたところで応える兄
みたいな解釈が自分にあるのでこういったやりとりになりました。
陳情令要素
陳情令の兄弟にしか言えない台詞を入れたいなと思ったので
「大哥にお前がわからないはずがない」
「どんな私になったとしても、きっと見つけてくれるから」
というセリフを入れました。
「大哥にお前がわからないはずがない」
原作の大哥が言うとかなり切ない印象になりますが、
唯一懐桑を傷つける前に自力で自我を取り戻せた陳情令大哥が言うなら
理屈も時間も思い出も、何もかも飛び越えて弟を守る言葉になるかなって。
「どんな私になったとしても、きっと見つけてくれるから」
これは今回の漫画の一番最後の文言なのですが、
懐桑と大哥の両者が根底でお互い信頼しあっているニュアンスです。
日本語での一人称が「私」である彼らを結ぶ言葉を同じにしたかった。
しかし99%の方が懐桑サイドの心境と思ったと思います・・・!
大哥にお前がわからないはずがない(だってお前もそうだろう、懐桑?)という根底がここにある感じ。
もっとちゃんと描ききれたらよかったのですが!!精進したいところです。
形…!のどうでも良い話
以下形…!の方のめちゃめちゃしょうもないけど、ありえるかもなって話です。
聶漫画を描くにあたって色々調べていくうち、
(というか不浄世の祭刀堂を描くにあたり看板の文字の祭が本当に祭なのかわからなさすぎて
近い形の文字を探しまくっていくうち)
篆書体の「心」、ちんぽにしか見えん・・・となってしまったのでした。
清河は基本的に篆書体で看板や扇子の文字を書いてるけど、修心の文字は篆書体じゃないんですよね。
向こうの人も恐らく「心」に若干のちんぽみを感じてるんじゃないかな、と思いました。
最悪な話で締めくくっちゃったよ、そんな感じで私の趣味全開の漫画でしたm(_ _)m